ピエール・ヨゼフ・プルードンとは?

『ピエール・ジョゼフ・プルードン』より : ブザンソン地方のムイエールと呼ばれるところで生まれた。父は醸造職人・樽製造職人をしていた。12歳に宿屋の食糧係として働きはじめ、コレージュの6年生に通学生として編入された。仕事のために授業を時々休み、教科書を筆写したり街の図書館に通ったりとほぼ独学の状態で、学業を完全に終了することはなかった。19歳から自分で生計を立てねばならず、ブザンソンの印刷所へ印刷工として就業した。この時期、教会用のラテン語訳聖書の校正をしているうちに広汎な神学の知識を身につけヘブライ語を覚えてしまったという。1837年に最初の著作『一般文法論』を書く。
スュアール年金という奨学金を受け、1839年『日曜礼拝論』を書くがその内容が財産平等の理想に基づく社会改革という思想が聖職者会議に忌避され、本の販売は禁止された。1840年6月『財産とは何か』が出版されたが、「財産、それは盗奪である」などの過激な表現によりブザンソン・アカデミーが出版の認可を取り消し、プルードンは前言撤回を拒否する。1841年4月に財産に関する第二論文、1842年1月に第三論文が追加された。この間経済学者のブランキや社会主義者のピエール・ルルー、コンシデランと知り合っている。第三論文がブザンソン警視庁に押収され、起訴される。1843年3月に印刷所の仕事を辞め、1847年10月までリヨンのゴーチエ兄弟商会の事務員・法律顧問となる。実務に妨げられながら経済学者と交遊し、1846年『経済的矛盾の体系、または貧困の哲学』を出版する。このころ、ロシアのバクーニンとも知り合い、ヘーゲル弁証法について徹夜で議論している。

ピエール・ヨゼフ・プルードンの詳細

ピエール・ヨゼフ・プルードンの画像


WikiPedia | Amazon | 楽天ウェブサービス | フォト蔵