ミハイル・バクーニンとは?

トヴェーリ県の貴族の家に生れ、初めペテルブルグの砲兵学校に学び,将校として軍務に就いたが、父の反対を押して退官(1838年)、モスクワに出てヴィッサリオン・ベリンスキー ベリンスキー、アレクサンドル・ゲルツェン ゲルツェンと交わり、主にロマン主義 ドイツ・ロマン派やフィヒテやゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル ヘーゲルの哲学を研究した(1835年-1840年)。後のスラブ派のコンスタンティン・アクサーコフに送られてベルリン大学に留学し、シェリングの講義の聴講者としてマルクスやハインリッヒ・ハイネ ハイネ、キェルケゴールと共にバクーニンの名前がある。ドイツ,スイス,フランス等に滞在し、青年ヘーゲル派のルーゲやエドガー・バウアー、義人同盟のヴァイトリング、さらにプルードンやカール・マルクス マルクス等と交わる。1848年のフランス二月革命期には全スラヴ民族の合同共和国の樹立を目ざして活動、ドイツ三月革命にはドレスデンで音楽家のリヒャルト・ワーグナー ヴァーグナーと共に活動し(ヴァーグナーの『ニーベルングの指輪』に登場する英雄ジークフリートはバクーニンがモデルだったとも言われている)、武装蜂起を指導するが敗れ、1849年にザクセン政府に逮捕され、1851年ロシアに護送され、シュリッセルブルクの要塞に投獄される。死刑を免れて従兄弟が総督でもあるシベリアに流刑される(1857年)が、流刑地から脱走(1861年)し、生麦事件の頃の日本の横浜から太平洋を越えてアメリカへ渡り、大西洋を越えてイギリスに到達し、ロンドンのゲルツェンと合流し、革命運動に復帰した。さっそく1863~64年のポーランド蜂起に関与したが、失敗に終わり、民族主義を基盤とする革命に疑念を抱くとともに、自身の革命組織の必要性を痛感するようになった。また自身の革命思想を自覚的に理論化し始めた。1864年、第一インターナショナルに参加し、多数派を形成し、マルクス派と戦ったが、事務局を握るマルクスにより謀略的に除名された(1872年)。しかし、マルクス派を排除した多数派としてのインターナショナルの継続を行う。1872年から1877年に「ジュラ連合」を組織して無政府主義者の合同を計り、同時にロシア国内の革命分子と連絡をとり、その指導にあたった。スイスのベルンで没する。

ミハイル・バクーニンの詳細

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